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《ピアノ三重奏曲》イ短調は、モーリス・ラヴェルが1914年の夏に作曲した室内楽曲。 == 作曲の経緯 == 本格的に作曲が開始されたのは1914年の3月だが、ラヴェルは少なくともその半年前からピアノ三重奏曲の作曲を計画していた。作曲の序盤において、ラヴェルは弟子のモーリス・ドラージュに「三重奏曲はもう書けているのです。今必要なのはただ主題だけです」 〔 〕 と述べている。1914年の夏にラヴェルは、フランス領バスクのコミューンであるサン=ジャン=ド=リュズに滞在して作曲を行っていた。ラヴェルの母親はバスク人であり、ラヴェル自身もバスク地方の街シブールで生まれたため、バスクの伝統に強く自分のルーツを見ていた。そして、三重奏曲の作曲中ラヴェルは、バスクの主題に基づくピアノ協奏曲『サスピアク=バット』の作曲も並行して進めていた。こちらは後に破棄されることになる(一部がピアノ協奏曲ト長調に転用される)が、三重奏曲にもその痕跡は残っており、特に第1楽章についてラヴェル自身が「バスク風の色彩を持つ」〔と述べている。 当初作曲はゆっくりと進んでいたが、第一次世界大戦が勃発し8月にフランスが参戦したことで、徴兵に応じるつもりだったラヴェルに作品を完成させる意欲が巻き起こった。フランスの参戦の数日後、ラヴェルはデラージュに「私は三重奏曲を確信を持って、正気を取り戻した狂人のように書いています」と述べている。9月には作品は完成し、イーゴリ・ストラヴィンスキーに「すぐに出発しなければという思いに駆られて、5か月かかる仕事を5週間でやり遂げました! 三重奏曲は完成しました」〔と書き送っている。ラヴェルは10月には陸軍の看護助手として採用され、また1915年3月には志願兵となり第13砲兵連隊のトラック運転手として従軍した。 作品はラヴェルの対位法の師であるアンドレ・ジェダルジュに献呈され、初演は、1915年1月28日にパリのサル・ガヴォーで開催された独立音楽協会の演奏会において、〔LP「ラヴェルピアノ三重奏曲/フォーレピアノ三重奏曲」(フォンタナローザ三重奏団、テイチク)ライナーノーツ(三浦淳史)〕アルフレード・カゼッラのピアノとガブリエル・ウィヨーム(Gabriel Willaume)のヴァイオリンおよびルイ・フイヤール(Louis Feuillard)のチェロによって行われた〔。同年パリのデュラン社によって出版されている。自筆譜は現在、テキサス州オースティン大学が所有している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピアノ三重奏曲 (ラヴェル)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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